言語学習ー子供と帰国子女はラッキー?

ブログ・コラム

ドイツ語習得に関する記事を書く上で、短期間でペラペラになれるといううたい文句で有名なTim Ferrisなどの記事などを読み漁ってみた。外国語習得なら子供のうちだと思っていたけれど、年齢や習いたい言語を話す言語圏に住んでいるかに関係なく、3ヶ月で流暢に話せるようになるというのは可能だということが何となく見えてきた。但し、必死さと目標は欠かせない。 

高校の時、アメリカに住みたくて仕方がなかった私は、他の科目そっちのけで英語だけは必死に勉強した。『学校の勉強なんて、卒業すれば役に立たない』という人がいるけれど、英語だけは絶対に役に立つと思っていたため、テスト勉強というよりは、後に役に立つような単語などに力を入れていた気がする。インターネットで海外ドラマが観れるような時代はまだ先だったため、アマゾンでビデオや英語の字幕表示器などを買ったり(つまりは親に買ってもらったり)、私の英語学習はちょっと高くついたと思う。でも、いくら高い教材を買っても、環境に恵まれていたとしても、やる気がなければ何も身に付かない。私のやる気は『日本脱出』というティーンの野望から沸き起こっていたため、それなりの効果はあったようだ。 

今となってみれば、そんな必死さを思い出すことさえできそうもない。でも苦労した感はある。また、高額な英会話学校に通わせてくれた親に対する罪悪感と感謝の気持ちもいっぱいある。そんな中、ドイツ人、スイス人や北欧系の人と会うと、勉強をそんなにしなくてもペラペラな姿を見て、妬まずにはいられないのである。 

そして次に妬まれそうなのは、帰国子女である。『子供の時に海外で生活することができたなんて羨ましい』と思われると思う。実際に高校時代の私もそう思っていた。さらには「なんでアメリカに生まれなかったんだろう」などという訳の分からない悩みも抱えていた程だ。 

帰国子女という言葉自体がとても古臭いのだけれど、現代社会でわざわざこういう人たちを指す言葉は必要なのかわからない。英語には直訳できる言葉はない。子供時代を海外で過ごしたからといって、後々の人生でそれほど大きなインパクトがあるとは思えない。逆に日本人で帰国子女というと、ハンディキャップなのではないかなと思う。これはまた違う機会に話すとして、帰国子女と言語学習で面白いエピソードがある。 

帰国子女だからと言ってその後の人生でそれほどのインパクトはないと言ったけれど、発音は子供の時に身につけると、後々残っているものらしい。高校時代、ハワイで幼稚園を過ごしたというクラスメイトは、テストの点数に関係なく、発音は本当によかった。英語の授業中、先生に何度も指名され、良い発音で音読させられていた。 

カナダの英語学校で働いていた時、先生たちの間で有名になった日本人の生徒がいる。この子も子供の時に英語圏で数年を過ごしたらしい。しかし、その後は日本で育ったため、残ったのは発音力だけだったようだ。文法などは一般日本人並みなのである。同僚の先生は「話し始めるとまるでネイティブなんだけど、文法は滅茶苦茶で、でも発音がいいからどうも混乱させられてね。」という。発音だけがよすぎるのも困るようだ。 

英語は住めばどうにかなる 

これについて一度友達と話し合ったことがある。その時誰かが「外国に住めばその国の言葉が話せるようになるからと言って、ゼロの状態でその国に住んで、誰ともコミュニケーションできないということがトラウマになって、いくら言葉が話せるようになってからも、そのトラウマからは立ち直れないらしい」という説を語った。 

トラウマなんて大げさな、と思うけれど、心の奥底を見てみれば、私の中にそのようなトラウマがあるのである。 

住めばどうにかなるというのは、端的に言って嘘である。実際に英語が一般的に通じるドイツでは、ドイツ語が話せないまま6年以上住んでいる人なども沢山いる。習う気がないと、外国語は雑音であり、路線の近くに引っ越してしばらくすると音が気にならなくなるように、しばらく外国語を聞きならしていると、全く単語を拾うことなく完全に無視できるようになる傾向があると思う。 

さて、私の中のトラウマと言うと、多々あるのだけれど、未だに克服できないのが、『言ってることはわかるけれど、返事ができない為、わからないと思われて空気がよどむ』ことだ。これは、何のことやらと思われても不思議ではない。例としては「あ、話の分からない外国人にべらべらと語ってしまったわ、恥ずかしい」というのが明らかに相手の顔から読める時があり、それがとてもトラウマになってしまったようなのだ。これだけは毎回完全に避けたい状況なのである。 

去年、免許証を受け取りに列に並んでいると、後ろに並んできたおばあちゃんがべらべらと話しかけ始めた。言ってることはほとんど分からなかった。こういう時、『すみません、言ってることが分からないのでゆっくり話してもらえますか?』ということはできるけれど、こういう会話は雑談であり、他愛もないことなので繰り返すほどではないのである。ゆっくり繰り返してくださいと頼んだところで、雰囲気はがらりとかわる。外国人と接点がない人にとっては、どれだけ相手が理解できるかを考えたりするのは、ちょっと面倒であり、かなり気を遣う所でもある。 

こういう時私はなるべくわかるような振りをする。でもこのおばあちゃんは鋭かった。「もしかして、私の言ってることわからないんですか?ドイツ語話せますか?」と聞かれてしまった。こういう時、恥をかくだけではなく、過去の同じような経験と気まずさがよみがえってくるような気がするのである。 

先日、電力会社の人がセールスに来た時に、ほとんど私の方では「はい」と「いいえ」で終わる会話が続いた。もちろんセールトークをしているのだから、私が何か言わなければいけないところではない。電力がらみで、出身が福島で、原発の近くで夏を過ごしたというような話をすると、外国人であるとわかったため、「ドイツ語うまいね」と言われた。こういうことがよく起こる。誰でもリスニングはスピーキングよりも得意なものである。 

このセールスマンの中では「僕の言ってることが100%わかるのであれば、同じように話すことができる」と思っているのではないかなと思う。実際には、理解はできても、同じ単語をリピートすることさえできない。ここで「ドイツが上手だ」と褒められたことが、変にプレッシャーになり、つたないドイツ語で話して「え、こんなにドイツ語ができない人に延々とセールストークをしてしまった」と決まりの悪さが相手の顔に浮かぶのを見たくないのである。 

子供とトラウマ 

こういう点で、子供の方がトラウマ度は少ないのではないかなと思う。子供の時にカナダに引っ越したという友人が何人かいる。「幼稚園の初日、周りの言ってることが全く分からなかった」とか「トイレに行きたいと先生に言いたかったけど、どういえばいいか分からないから我慢した」というような切ないエピソードもある中、「2週間くらいして、先生にトイレに行っていいですかって聞くときに、普通に聞くことができたんだよね。あれは不思議だったなぁ」というような程度である。 

恥をかかずに外国語習得はできないと思う。ただ、大人になるとそれが難しい。 

だから大人であれば、ある程度の基礎はできるようになってから外国にチャレンジした方がいいというのと、必死さと目標を持って恥をかくのを恐れないこと、そして帰国子女や環境に恵まれていた人を妬まないのが大切である。事情や苦労は人それぞれ。 

言語学習に関する記事を集めていた時に、「大人の方が子供よりも外国語学習に適している」という記事をいくつか見つけた。読んでみると、子供と大人では習い方が違うため、子供の方が外国語学習に適していると一概には言えないそうだ。 

母国語ができない者は、外国語を習得することができないというような言葉を残したのはシェイクスピアだったと思うけれど、大人なりにぜひ外国語に挑戦してもらいたいと思う。海外に住む機会があるのであれば、なおさらである。 

ユカリ