海外でニーハオと言われることに対して想うこと
先日、仕事で再度クライアント先のエストニアに行ってきた。
現地で働いている、同じ歳の日本人の社員さん達と外に行った時「あ〜またニーハオって言われた。エストニア人って本当に差別的で、外歩いてると、絶対に1日3回ぐらい言われますよ」と言うのである。
面白いことに、東京出身のその女性の顔を初めて見た時「日本顔だな」と思った。
エラが全くなく、丸顔なのだけれど、あごのところがシュッとしていて、日本っぽいのだ。
それに対して、私と母は、中国人や日本人に中国人かと間違われるくらい、中国顔である。
免許証の写真も中国人っぽく「陳さんだー」と妹に笑われるほど。
そのため、実はニーハオと言われても「あ〜また中国人に間違われちゃったよ」となる。
でも日本顔でニーハオと言われると、「アジア人だからって、勝手に中国人だと思って」と憤りを感じるものなのだなと思った。
ドイツでもニーハオ
しかし先日、ケルン生活9年目にして、初めてくらいに道端でニーハオと言われた。
自転車で家へ帰る途中、ティーンエイジャーの女の子3人組の一人に言われたのである。
何となく、そこに茶化している感があり、「日本人だよ」と言い返したかったけれど、自転車に乗っていることもありそうもいかなかったので、その女の子たちの顔を見て、ニコっと微笑んだ。リアクションをもらえると思っていなかったのか、びっくりして一瞬血の気が引いたような、ちょっと顔が歪んだのが見えた気がした。
一瞬のことだ。
ニーハオは差別的か
一応中国語が少し話せるので、你好とニーハオは区別がつく。
ニーハオと言われたからといって、それがアジア人に対する差別にあたるのか少し考えてみた。
中国人以外にニーハオと言われるのは(というか、中国人であれば你好と言うので)、はやり差別的だと思う。
見た目がアジア人なので、知っているアジアの挨拶をするというところで、まずはアジア人で他の人と見た目が違うから話しかけてくるというところで差別だ。
でもそこでさらに、中国人かモンゴル人か、日本人かなどの区別をせずに、中国語で話しかけてくるところは、別に差別ではない気がする。実際に、アジア人人口では中国人が多く、コンニチワ、サワディカー、シンチャオなどを考慮した時、日本で「フランスだったらボンジュール」のように一般常識的に出回っているアジア圏の挨拶は、ニーハオくらいだろう。
でも、もしもそのティーンエイジャーが中国語を習っていたらどうだろう。発音は悪いけれど、もしかしたら你好といいたかったのかもしれない。中国語でネイティブに話しかけられると思って嬉しかったのかもしれない。
過去に私もニーハオしていた件
そう思ってしまうのも、私にも経験があるからだ。
高校生の時、通学路沿いの家に白人と日本人の家族が住んでいた。時々、その外国人の人と自転車ですれ違ったり、家から出てくるのが見えたりした。
一度、川沿いの狭い土手の上を自転車で走っていたら、向かいから自転車に乗ったその外国人がくる。これは英語で話すチャンスかなと思いながら、ジーッと見ていたら、「Hello」と言ってくれて、ヘローと返すことができた。今でも覚えているくらい、これに大喜びしていた田舎のティーンエイジャーだった私。
田舎なので、どこからかその人は別の学校で英語を教えている英語の先生だと知った。今思えば、もしもその人が生まれも育ちも日本の白人男性だったらば、ジロジロ見られるのも、Helloと話しかけられるのも嫌だったことだろう。
こんな経験もあるため、年に数回もない「ニーハオ!」にはやはり寛大に対応しようと思う。